スクリーンの誘惑

見た映画の記録を関係ないような雑感といっしょに。

「バーニング・オーシャン」

 人が亡くなったり、痛い思いをしたりする映画は苦手だ。怖くて画面を見ていられない。『アメリカ史上最悪の石油災害』と聞けば、苦手な類の映画だということは容易にわかるのに、予告編につられてつい観てしまった。

 

 映画の半ばあたりで、この映画を観たことを本当に後悔した。過去の映画でいえば「タイタニック」あたりを思い浮かべてもらうといいかもしれない。画面のなかで多くの人が傷つき、血が流れ、被害が拡大していく。怖くてたまらなくて、劇場を出ようかと思った。

 一度はしまった腕時計を取り出して時間を確認したところ、上映開始時刻から1時間15分ほど。ずっと事故のシーンというわけではないから、どんなに長くても30分我慢すれば事故のシーンは終わるだろう。

 そう思って、ひたすら耐えた。耳をふさいで、目を閉じて、ハンカチを握りしめて必死で耐えた。それでも聞こえてくる音と、途中途中で見るストーリーで、十分すぎるくらい苦しかった。

 

 自分が死ぬかもしれない、死に直面している局面で、目の前の人を助けようとする。危険を冒してまで人を救いにいく。すこしでも多くの人を救うため、最悪の状況を改善させるために戦う。

 立派なことは間違いない。でも、そんなの美談じゃないと思う。

 彼らの家族や、彼らを大切に思っている人のことを思えば、目の前の人よりも、すこしでも多くの人を救うよりも、とにかく自分だけでも助かってほしい。一刻も早く、すべてを投げおいてでも逃げてほしい。

 人間として普通のことだ。それを思えば、こんなの美談にはできない。

 事故までの経緯を知れば、完全な人災だ。人間が人間の死を引き起こすなんて、あまりにも馬鹿げている。

 

 どんな人災の影にも、多数を救うために動く人たちがいる。

 これを人災と呼ぶのは適切ではないかもしれないが、福島第一原発だって、危険を冒して戦ってくれた人たちがいる。それも、目の前の死だけでなく、いつになれば安心できるかもわからない放射能の恐怖もいまも抱えているに違いない。

 そういう人たちに感謝しようなんて、そんな薄っぺらいことは言えない。でも、どんな裏にも人がいる。人災から人を救うのもまた人なのだ。

 

 号泣しすぎて、観終わったときにはメイクは全部落ちてしまった。綺麗に泣くことなんてできなくて、ぼろぼろに泣いて、何度も鼻をかみながら観た。

 感動で泣いたんじゃない。つらくて苦しくてたまらなかったからだ。

 

 

burningocean.jp

「暗黒女子」

 学校というのは、階層社会だ。少なくとも女子の世界は。

 派手なトップ集団と、コアな世界を形成している地味集団。そしてそのどちらにも属さない中間層。だいたいどこもその3階層だと思う。

 その階層の決まり方というのは非常に不明確で、頭がいいわけでも、先生に取り入るのが上手いわけでも、家が金持ちなわけでも、特別見た目が良いというわけでもない。そして人徳があるということでもない。

 コミュニケーションの取り方はヤンキーに近く、社会に出れば一定の同質の集団に属するような人たちが、『学校』という強制的ごちゃまぜ空間の中で、根拠の見えない権力集団に属し、幅を利かせる。

 『学校』の階層は、その時代にしかない非常に不思議な社会だ。

 

 私が通っていた中学校では、トップ集団の女子の世界はどろどろしていて、常に誰かが『ハズ』されていた。

 こないだまでアヤカちゃんが一人でいたと思ったら、いつの間にかアヤカちゃんは集団に戻り、リエちゃんが仲間外れ。次はトモコちゃん・・・といった具合にエンドレスループを繰り返す。そして『ハズ』された女子は、一時的に中間層に受け入れを求める。これが中学の構図だった。

 そもそもその集団に属する理由も不明確だから、仲間外れにする理由も同様に不明確だ。人間同士だから合う合わないはあれど、出たり入ったりを繰り返す集団にはきっと明確な理由などなく、誰か一人を『ハズ』しておくことが集団の結束を維持するための要件だったんじゃないかな。

 なんだか非常にあほらしいが、そういうことが重要なのが学校社会で、大人になるための通過儀礼のような気もする。

 

 なんてことを思いながら見たのが、この「暗黒女子」。絶対女王が存在するトップ集団のどろどろを濃く、凝縮させている。

 

 トリックを暴いていくミステリーではないので、どうやって他人の秘密を握ったか、裏工作・偽装工作をしたのかなど、ミステリー視点で考えてしまうと解明できないことばかり。でもこの映画の本質は凝縮された女のどろどろなので、そんなことは大きな問題ではない。

 殺人・自殺・その他犯罪がぼろぼろ・・・。高校生でそんなことある?という疑問が浮かびそうだが、内容の軽重はともかくとして、これは『学校』という場の特殊性によってなせる話。

 『学校』における女子の恐ろしさがよく表されている。

 

 

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「ムーンライト」

 自分はストレート(異性愛者)だという確固たる自信は、どのようにしたら生まれて、いくつになったら確定するのだろう。

 

 私は男性としか付き合ったことがないし、キスもセックスも男性としかしたことがない。好きになったのも男性だけだ。

 でも女性とも付き合えるとも思っている。好きになるような相手と出会わなかっただけで、たぶん女性ともセックスできる。きっと好きだったら、したい。

 男性だって、そういう相手と出会わなければ、一生恋愛なんてしなかったのかもしれない。それと一緒じゃないか。

 

 でも一般にストレートの人というのは、そういう感覚自体がないのか、それともみんな多少のぐらつきはあるのか、わからない。

 自分の性認識に関してはぐらつきは一切ないが、恋愛対象についてはわずかだけど疑わしくはある。そういうぐらつきは、なにかがあれば解消されるのか。この歳までこうならこう、と決まるものなのか。

 別に悩んじゃいないけど、生きていくうえでちょっとした不思議ではある。

 

 同性愛の始まりも、きっと最初はぐらつきなんだろうな、と思う。

 人に言われて認識し始めるのか、徐々に違和感を覚えていくのかは人それぞれだろうけど、この映画の同性愛の始まりは、知らないなりに自然なように見えた。

 まぁだけど、よく考えたら目新しくはないよね。ちょっとした一言で意識したり、「あのひとのことが好きなのかも」と思ったり、会いたくなったり。同性愛か異性愛かでなにか急激に目新しくなるわけじゃないよね。どちらも普通の恋愛なのだから、当然と言えば当然だけど。

 

 だけど、決定的に裏切られた人を許せるのか。好きだからこそ、絶対に守ってほしいときはある。超えてはいけないラインはある。

 十何年(もっと?)経ったからって、再会しようと思えるのか。なんでもないひとを嫌いになるより、大好きな人を大嫌いになる方がずっと簡単でしょう?好きだったからこそ、もうだめなんじゃないのか。

 腑に落ちない思いの方が強く残っている。

 

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「夜は短し歩けよ乙女」

 アニメーション映画を見たのは何年ぶりだろう。というか、きちんと全部見たのは初めてかもしれない。

 ジブリを一番長く見たのは金曜ロードショーの「もののけ姫」のみ。それも途中でお風呂に入った。お風呂から上がったら、鹿の首から出るどろどろが山を覆っていた。

 あの「君の名は。」すら見ていないという体たらく。なぜだかアニメーション映画に抵抗があって、足を踏み入れないままだった。

 それでも今日、アニメーション映画の「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ったのは、大好きな源ちゃん(注:星野源さんのことです)が声優をやっているからなのです!

 

 正直、最初は話がわからなかった。時間軸がわからず、季節の移りかわりも不明。飲み比べをしていたと思ったら、古本屋を巡り、いつのまにかミュージカルになった。

 でも最後にきて突然響くラスト。「何かのご縁」の言葉の通り、すべてが人と人との縁で繋がっている。良くも悪くも全部人の縁、というのは、確かにと思う。

 私が今週いらいらいらいらして、家に帰っても処理しきれない嫌な気持ちを抱えていたのも、言ってしまえば人の縁。欲しくはなかったけれど。

 ところどころわけわからんなぁ、なんだこれ、と思って声を出して笑い、最後には温かい気持ちになって、すこし泣いてしまった。

 

 人との縁に目を向けるのは、怖いことでもある。続いている縁、切れてしまった縁、自ら切った縁。自分の行いを振り返る修行のようだ。

 でももしかしたら、そこに感動かあるかもしれない。めくるめく一夜は、私にも起こるかもしれない。

 私の中に渦巻いていた黒い汚いものが、すこしは薄まって流れたような気がする。

 

 "黒髪の乙女"に恋する"先輩"の『ナカメ作戦』も『ロマンティックエンジン』も、めちゃくちゃ可愛いの!きゅんとしちゃう。あぁ、でも、説明はしたくない。この可愛さは観て伝わってほしい。恋ってすてきだ。

 もう疲れていたはずなのに、いまさらこんなこと思うなんて。私のロマンチックエンジンも、導火線に火花くらい散ったかも。

 今夜この映画を観て、ほんとうによかった。

 

 作中に出てくる「ラ・タ・タラム」という絵本もとっても気になる!本屋さんに行ったら探してみよう。

 

 ところで、源ちゃんが声優をしている"先輩"って、きっと童貞だよね。俳優としての役だけでなく、声だけでもこの童貞あてがわれ力。そんなことを思ってにやにやしてしまいました。

 

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「愚行録」

 ストーリーは、週刊誌の記者が1年前の一家殺人事件を追うため、被害者と生前繋がりのあった人々に取材をしていく形で展開する。人間過去をつつかれれば綺麗なばかりではないけれど、残酷なくらいだ。

 

 冒頭から、殺された夫の同僚男性の回想の中で、男たちは女を踏みにじる。性と人間をあわせて。吐きそうになるくらいの嫌悪感だ。

 傷つけられる女性にも要因はある。でもそれは中学生のいじめのようなもので、要因があれば容認されるというものではない。

 

 男が女を踏みにじるか、女特有かもしれないヒエラルキーの歪みか。エピソードはそれだけなのに、細かく描かれていて、憎しみとか劣等感とか絶望感がグサグサと突き刺さる。

 現実でもいるでしょう。よくこんなに人の心を蔑ろにできるな、と思う人。それをスクリーンで見ているみたいだ。

 

 なんだか、いちばん触られたくない肝の袋にナイフを突き刺されて、でも中身は無駄に頑丈だから破裂はせず、いつ中身が漏れるかわからないずたぼろの袋を抱えて帰らなければいけない気分だ。

 妙に傷ついて、傷を上塗りすれば少しは薄れる気がした。映画の帰りにそこらへんでナンパされて適当に抱かれたらいいと思った。

 ま、そうそうナンパもされず、声をかけてきたのは夜の仕事のスカウトのみ。金銭という目に見える対価があっては、傷としては不十分だ。そればかりが理由じゃないけれど、お断りした。

 

 この映画よかったよ、見た方がいいよ、とは言わない。でも「残る」映画だ。

 映画って、何かを残すために見るんでしょ。何もない上っ面を滑るより、えぐってでも跡があった方がいい。映画を見る意味を思うなら、これほどのものにはなかなか出会えないんじゃないかと思う。

「LA LA LAND ラ・ラ・ランド」

 「夢は諦めなければ叶う」「諦めない人が成功する」という言葉は世間に溢れていて、夢追い人には欠かせない。それは真実でもあるけれど、「物は言いよう」でもある。

 今日を最後に、と決断して区切りを付けた翌日に千載一遇のチャンスが待っていたかもしれない。明日が転機だったかもしれない。
 でもそんなこと、誰にもわからない。言ったらきりがない。止め時がなくなるだけだ。

 一大決心で夢を追っていても、暮らさなければいけない。家賃を払わなきゃ家を追い出されるし、水道光熱費を払わなきゃライフラインが止まる。お金持ちの家に生まれでもしない限り、お金を稼がなければ暮らしていけない。

 区切りを付けなければいけないときは、いつ来たっておかしくない。みんながみんな、成功なんてしない。それが現実だ。

 

 「LA LA LAND」は、主人公のミアちゃんの笑顔が本当に可愛いの!オーディションの前室に綺麗な子が座っていたとしても、にっこり笑ったミアちゃんに敵う女の子なんていないよ。

 恋人になるセブとの出会いは最悪で、意地を張り合いながら恋に落ちるところなんてありがちな少女マンガみたい。でも「少女マンガみたい」の一言で突き放したくないくらい、ときめいてしまう。きっとミアちゃんの笑顔の効果もある。

 ミュージカル映画なので、ストーリーの中で歌って踊る。私は普段かっこつけちゃって、踊ったりするタイプじゃないけど、これを観たら私も踊りたい!踊るのって楽しそう!

 ダンサブルで楽しいけれど、切ない。最後にセブが弾くピアノの音色は、絶対に聴いてほしい。音楽に感情を乗せるって、どうしてこんなに素敵なんだろう。

 叶わない夢もあるなんて現実、きっとみんな知ってる。それでも追いたい夢もある。

 

gaga.ne.jp

「相棒 劇場版Ⅳ」

 私の地元には有名な語り部がいる。地元の小中学生はみな、彼女の話を聞いたのではないかと思う。
 終戦間近の空襲の夜、彼女は幼い娘を背負って逃げた。戦火から逃れようと川に飛び込んだが、B29が油を投下したあとに焼夷弾を落とすものだから、川の表面は火の海となった。
 水に潜ってなんとか逃げた。やっと助かったと思ったとき、背中で娘が亡くなっていた。そこで、彼女は泣いた。
 当時、おそらく戦後50年ほど。戦争の恐ろしさより、彼女の傷の深さに衝撃を受けた。

 「相棒 劇場版Ⅳ」を観ながら頭の中を占めたのはこの話だった。異国の地で戦火から逃げようと走る日本人親子の映像に、語り部の彼女の消えない苦しさを重ねた。
 この映画の根っこには戦争の存在がある。過去の戦争でいまも苦しむ人がいる。きっとこの事実がノンフィクションな世界はあるんでしょう。

 そんな真面目なことはいっさい考えなくても、この映画はおもしろい。相棒ファンの期待に応える劇場版だ。
 ただひとつ気になるのは、副総理、むかし犯人役やってなかったっけ?
 神奈川県警の警察官のふりをする誘拐犯グループのボス。確か同じ俳優さんじゃなかったかしら。
 ま、そこが気になったのも最初だけで、すぐにそんなことはどうでもよくなりました。

 ところで、語り部の彼女は、もう亡くなっているのです。彼女にとって私は大勢の小中学生の中の一人で、私も彼女の顔を思い出せない。でも彼女の話は強烈に残っている。
 戦争を知る世代がいなくなるというのは、本当に日本の損失なのだ。

 

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