読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スクリーンの誘惑

見た映画の記録を関係ないような雑感といっしょに。

「追憶」

 失恋したときに、悲しい曲を聞くか、明るい曲を聞くかは、派閥が分かれるところだと思います。

 迷いなく前者の派閥として生きてきて早10年以上。失恋に限らず精神的につらいときは、悲しい曲、暗い曲、人間の闇を感じる曲ばかりを聞いては、ひたすら泣くというのが私の定石。そのために、私のウォークマンには暗い気分用プレイリストがあったりします。

 むかし好きだったバンドは、明らかに病んでる時期と思えるアルバムが1枚あって、当時はそのアルバムばかり聞いているときもあったなぁ。

 こういう傾向は音楽に限らずで、映画なんかも一緒なんですね。

 今日は「帝一の國」にするか「追憶」にするか迷いまして、もうここ最近の低迷ぶりとすぐ泣く度合いを考えたら、ここは「追憶」しかないでしょう。苦しい気持ちを抱えて帰るしかないでしょう。

 と、意気込んで観にいった「追憶」。

 

 あったかくなるいい映画だった・・・!

 

 予告編を見る限り、暗い出来事を抱えた人たちの苦しい思いでいっぱいの映画だと思っていた。もちろん苦しい思いはあるのだけれど、最後には温かい気持ちになれる、静かに愛情の溢れる映画だった。

 劇的ではないけれど、すこしずつじんわりと心に温かみが沁みていく。人間は汚いばかりではないのだ。目をそむけたくなるほど汚いもののなかにも、綺麗な思いは残ることができる。

 

 夕日が美しい映画だけれど、桜も見てほしい。四方(岡田准一)が桜満開の道を歩くシーンが最高に美しかった。美しすぎてざわざわする、脳に鳥肌立つような感じがするくらい。

 

 想定する涙は流せなかったけど、これはこれでいい涙だったな。

リバース

 湊かなえの「リバース」を読んだ。いま藤原竜也主演で連続ドラマ化されている。

 ドラマ化されていることは本を読むときに同時に知ったが、先週ドラマを観てなにがよかったかってね、藤原竜也のダサさ!藤原竜也演じる主人公の深瀬くんは、絶妙にダサいんです。普通の範疇なんだけど、でもやっぱりなんかダサい。なんか冴えない。地味。パッとしない。

 藤原竜也といえば狂気の演技のイメージで、そんなに地味ダサな役できるんだろうかと思っていたけど、本当に地味にダサいんだよなぁ。猫背気味の姿勢とか、視線の動かし方とか、セーターの袖の長さが微妙に長いところとか、そういう小さいところから生まれるこの絶妙なダサさは、さすが藤原竜也、なのかもしれない。

 服の着方はね、大きくは逃げ恥の平匡さんと変わらないんですよ。丸首セーターの下にシャツを着るとか、基本は同じなのに、微妙な色や柄や丈や着こなしが、もうほんと、ぜつみょうにダサい。

 深瀬くんのダサさの再現度合いをみるためにドラマを見たっていいくらい。

 

 これに反して「人は見た目が100%」の桐谷美玲。全然可愛い。眼鏡かけてるだけで可愛いのはごまかせないからね。化粧っ気のなさが地の可愛さを引き立てちゃって、もう全然モテないリケジョじゃないですよ。見た目で得してる側の人間ですよ。たぶんまったく再現できていませんね。(原作読んだことないけど。)ちょっとは深瀬くんを見習ってほしいね。

 まぁ桐谷美玲の場合は、整形せずして途中から綺麗にならなきゃいけないっていう責任も負ってますからね。マンガの実写化の難しさを感じますねぇ・・・。

 

 あ、すっかり話が逸れてしまいましたが、リバースね。

 ストーリーに立ち返ると、大学時代の同じゼミの仲間5人のうち、1人が事故で死んでしまうんです。何年も経って社会人になってから、その事故が発端と考えられる事件が起こっていく・・・というお話。ミステリーなので、もちろん結末はおたのしみで。

 

 この本を読んでなにより気になったのは、男性同士にも女同士のような微妙な人間関係というのはあるものだろうか、ということ。

 自分が一番仲がいいと思っていた友人が他の友人と仲良くしているときの嫉妬心とか、自分の階層を考えて卑下したり引け目を感じたりするとか、友人のクラス(レベル)によるヒエラルキーとか。そういうのって女性特有のいわゆる"女の世界"だと思っていた。というか、いまでも思っている。

 でもこの「リバース」には、男のそういう世界が書かれている。男の世界にもそんなどろっとした感情があるものなんだろうか。違和感がありつつも、これが現実なら、男の世界の初めて見る部分かもしれない。

 同性同士の粘着質は、たいてい女性のものとして表現されるからね。

 

 ドラマは小説と展開が違うようで、重大だと思われる部分が異なっている。さすがに結末は同じところに落ち着くんだよね??といつつ、つい気になって今週からは録画予しています。

 

shousetsu-gendai.kodansha.co.jp

www.tbs.co.jp

「無限の住人」

 あああR12指定って、こんなに血みどろなんでしたっけ。

 いやぁどう考えたってわかってたんだけど、バッサバッサ。「100人斬り」って延べ人数じゃなく一度にだからね。バッサバッサ。どんどん死んでいきます。血がザバァッって飛ぶに留まらず、腕とか脚とかさくっとズバッといきますからね。侍の根性をもってすれば、上半身だけになっても動いたりしますから。いや恐ろしい。

 前々から思っていたんですが、映画や時代ドラマでよくある、1人対100人で1人が勝つの、そんなことある? どう考えたって同時でかかっていけばいいじゃん。四方八方から斬られて全部かわせるなんて、嘘っぽくないですか?

 武士道の精神は1対1というならともかく、決して1対1で戦っている訳ではないし、1人に対して100人で向かってる時点でとっくにフェアじゃないでしょう。

 なんてことを思うのも、血みどろのスクリーンからの逃避なわけですが。

 

 「バーニング・オーシャン」のときも書きましたが、人がいっぱい死ぬような映画は苦手なんですよ。「無限の住人」はね、これはもう完全に人がいっぱい死ぬとわかってたんですけど、なぜだかつい・・・。

 半分くらいは画面を直視していませんけど、ストーリーはおおまか把握してます。たぶん。

 でもね、思うんです。りんちゃん(杉崎花)の行動で、余計人を殺してるんじゃないかって。余計万次(キムタク)を傷つけてるんじゃないかって。

 

 万次(キムタク)はいろいろあって不死身になってしまうわけですが、死ねないってつらいんだろうなぁ。つらい、なんていう薄っぺらい言葉で表現してはいけないんだろう。

 いつか死ぬからさ。終わりが来るから。だからこそ、この限られた人生のなかでなにを選ぶか、誰を愛するか、苦しむわけでしょう。失敗の損失に後悔するわけでしょう。死なず老いずなら、いくら失敗しようとフラれようといくらでもリベンジすればいい。今後一切他のひとやものを求められないなんてこと、きっとないのだから。

 有限のなかで苦しむからこそ、映画に感動して音楽に涙できるのだ。無限のなかに、きっとそんなものはないんじゃないかな。

 万次の無限の苦しみをりんちゃんが支えるのなら、それはそれでひとつのしあわせなのかもしれないな。

 

 

wwws.warnerbros.co.jp

「美女と野獣」

 ディズニーの実写映画ってやっぱり最高!

 お城も調度品も細部まできらびやか。ヨーロッパの田舎の街並みも荒廃したお城も、ディテールまで手が込んでいる。こまやかに絶対に手を抜かない感じ、さすがディズニーです。

 ヒロインのベルが野獣と踊るときに着る、黄色いドレスの裾の刺繍まで可愛いの。細部まで繊細で、ディズニーの神髄を感じます。すっかり影響されて、今年の春夏は黄色のスカートでも買おうかしらなんて、いい歳して憧れがひろがっています。

 

  そして、ベルの可愛さといったら!ベル役を演じたエマ・ワトソンハリーポッターのときより、ずっと華やかに、美しく、可愛くなったよね。きらきらしたディズニー映画のなかで、誰よりも何よりもきらきら輝いている。

 ディズニー映画のヒロインに選ばれるなんて、女優としてはステータスなんだろうなぁ。本物の美女に選ばれたって感じ。

 

 あまりにも有名な「美女と野獣」なので、ストーリーはもうすっかりわかっている。それなのにハラハラして泣いてしまうのも、ディズニーマジックのなせる技なのでしょうか。

 こんなおとぎ話世の中に存在しないことはわかっているけど、それでもふわふわときらきらと揺らめいてしまう。この美しさ。きらびやかななかにいることの居心地のよさ。観終わったあとの、幸せな香りに包まれるような気持ち。

 あぁ、これはもしかしたら、男の人には伝わりにくい幸せなのかもしれない。

 

 普段ティーン向けの純愛映画みたいなものには一切手を出さない。そんなことないわ、みたいな荒んだ気持ちもあれば、あまりの差にいたたまれない気持ちもあり、とにかく手を出さない。

 でもディズニーくらい圧倒的なきらきらの境地まで来てしまえば、そんなくだらないことはもうどうだっていい。実際に起こらなくていい。美男美女だから成り立つことも上等。引け目や卑屈心なんかすべて取っ払って、夢を見させてくれるのがディズニー映画なのだ。

 ディズニーリゾートが「夢の国」と言われるだけあって、映画の世界も夢を見させてくれる。ディズニー好きでなくともたまらない。

 

 終始ミュージカル調でベルの歌声も美しいの。最後まで歌声が聴けるから、ねぇ、エンドロールもちゃんと観てね。

 

 

www.disney.co.jp

「バーニング・オーシャン」

 人が亡くなったり、痛い思いをしたりする映画は苦手だ。怖くて画面を見ていられない。『アメリカ史上最悪の石油災害』と聞けば、苦手な類の映画だということは容易にわかるのに、予告編につられてつい観てしまった。

 

 映画の半ばあたりで、この映画を観たことを本当に後悔した。過去の映画でいえば「タイタニック」あたりを思い浮かべてもらうといいかもしれない。画面のなかで多くの人が傷つき、血が流れ、被害が拡大していく。怖くてたまらなくて、劇場を出ようかと思った。

 一度はしまった腕時計を取り出して時間を確認したところ、上映開始時刻から1時間15分ほど。ずっと事故のシーンというわけではないから、どんなに長くても30分我慢すれば事故のシーンは終わるだろう。

 そう思って、ひたすら耐えた。耳をふさいで、目を閉じて、ハンカチを握りしめて必死で耐えた。それでも聞こえてくる音と、途中途中で見るストーリーで、十分すぎるくらい苦しかった。

 

 自分が死ぬかもしれない、死に直面している局面で、目の前の人を助けようとする。危険を冒してまで人を救いにいく。すこしでも多くの人を救うため、最悪の状況を改善させるために戦う。

 立派なことは間違いない。でも、そんなの美談じゃないと思う。

 彼らの家族や、彼らを大切に思っている人のことを思えば、目の前の人よりも、すこしでも多くの人を救うよりも、とにかく自分だけでも助かってほしい。一刻も早く、すべてを投げおいてでも逃げてほしい。

 人間として普通のことだ。それを思えば、こんなの美談にはできない。

 事故までの経緯を知れば、完全な人災だ。人間が人間の死を引き起こすなんて、あまりにも馬鹿げている。

 

 どんな人災の影にも、多数を救うために動く人たちがいる。

 これを人災と呼ぶのは適切ではないかもしれないが、福島第一原発だって、危険を冒して戦ってくれた人たちがいる。それも、目の前の死だけでなく、いつになれば安心できるかもわからない放射能の恐怖もいまも抱えているに違いない。

 そういう人たちに感謝しようなんて、そんな薄っぺらいことは言えない。でも、どんな裏にも人がいる。人災から人を救うのもまた人なのだ。

 

 号泣しすぎて、観終わったときにはメイクは全部落ちてしまった。綺麗に泣くことなんてできなくて、ぼろぼろに泣いて、何度も鼻をかみながら観た。

 感動で泣いたんじゃない。つらくて苦しくてたまらなかったからだ。

 

 

burningocean.jp

「暗黒女子」

 学校というのは、階層社会だ。少なくとも女子の世界は。

 派手なトップ集団と、コアな世界を形成している地味集団。そしてそのどちらにも属さない中間層。だいたいどこもその3階層だと思う。

 その階層の決まり方というのは非常に不明確で、頭がいいわけでも、先生に取り入るのが上手いわけでも、家が金持ちなわけでも、特別見た目が良いというわけでもない。そして人徳があるということでもない。

 コミュニケーションの取り方はヤンキーに近く、社会に出れば一定の同質の集団に属するような人たちが、『学校』という強制的ごちゃまぜ空間の中で、根拠の見えない権力集団に属し、幅を利かせる。

 『学校』の階層は、その時代にしかない非常に不思議な社会だ。

 

 私が通っていた中学校では、トップ集団の女子の世界はどろどろしていて、常に誰かが『ハズ』されていた。

 こないだまでアヤカちゃんが一人でいたと思ったら、いつの間にかアヤカちゃんは集団に戻り、リエちゃんが仲間外れ。次はトモコちゃん・・・といった具合にエンドレスループを繰り返す。そして『ハズ』された女子は、一時的に中間層に受け入れを求める。これが中学の構図だった。

 そもそもその集団に属する理由も不明確だから、仲間外れにする理由も同様に不明確だ。人間同士だから合う合わないはあれど、出たり入ったりを繰り返す集団にはきっと明確な理由などなく、誰か一人を『ハズ』しておくことが集団の結束を維持するための要件だったんじゃないかな。

 なんだか非常にあほらしいが、そういうことが重要なのが学校社会で、大人になるための通過儀礼のような気もする。

 

 なんてことを思いながら見たのが、この「暗黒女子」。絶対女王が存在するトップ集団のどろどろを濃く、凝縮させている。

 

 トリックを暴いていくミステリーではないので、どうやって他人の秘密を握ったか、裏工作・偽装工作をしたのかなど、ミステリー視点で考えてしまうと解明できないことばかり。でもこの映画の本質は凝縮された女のどろどろなので、そんなことは大きな問題ではない。

 殺人・自殺・その他犯罪がぼろぼろ・・・。高校生でそんなことある?という疑問が浮かびそうだが、内容の軽重はともかくとして、これは『学校』という場の特殊性によってなせる話。

 『学校』における女子の恐ろしさがよく表されている。

 

 

ankoku-movie.jp

「ムーンライト」

 自分はストレート(異性愛者)だという確固たる自信は、どのようにしたら生まれて、いくつになったら確定するのだろう。

 

 私は男性としか付き合ったことがないし、キスもセックスも男性としかしたことがない。好きになったのも男性だけだ。

 でも女性とも付き合えるとも思っている。好きになるような相手と出会わなかっただけで、たぶん女性ともセックスできる。きっと好きだったら、したい。

 男性だって、そういう相手と出会わなければ、一生恋愛なんてしなかったのかもしれない。それと一緒じゃないか。

 

 でも一般にストレートの人というのは、そういう感覚自体がないのか、それともみんな多少のぐらつきはあるのか、わからない。

 自分の性認識に関してはぐらつきは一切ないが、恋愛対象についてはわずかだけど疑わしくはある。そういうぐらつきは、なにかがあれば解消されるのか。この歳までこうならこう、と決まるものなのか。

 別に悩んじゃいないけど、生きていくうえでちょっとした不思議ではある。

 

 同性愛の始まりも、きっと最初はぐらつきなんだろうな、と思う。

 人に言われて認識し始めるのか、徐々に違和感を覚えていくのかは人それぞれだろうけど、この映画の同性愛の始まりは、知らないなりに自然なように見えた。

 まぁだけど、よく考えたら目新しくはないよね。ちょっとした一言で意識したり、「あのひとのことが好きなのかも」と思ったり、会いたくなったり。同性愛か異性愛かでなにか急激に目新しくなるわけじゃないよね。どちらも普通の恋愛なのだから、当然と言えば当然だけど。

 

 だけど、決定的に裏切られた人を許せるのか。好きだからこそ、絶対に守ってほしいときはある。超えてはいけないラインはある。

 十何年(もっと?)経ったからって、再会しようと思えるのか。なんでもないひとを嫌いになるより、大好きな人を大嫌いになる方がずっと簡単でしょう?好きだったからこそ、もうだめなんじゃないのか。

 腑に落ちない思いの方が強く残っている。

 

moonlight-movie.jp